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日英の歴史 1808年

長崎で起きた事件

最後にイギリス人と日本人が顔を合わせたのは1673年のことでした。そして1808年には長崎港である事件が起こります。

フェートン号事件

1808年10月4日、イギリス軍艦‟HMS Phaeton (フェートン号)”が長崎港にやって来ました。この時、日本は鎖国政策の下にあったため外国船が日本国内の波止場に泊めることは禁じられていました。オランダ人だけが九州で限られた手段により、日本との貿易許可を得ていたのです。

HMS Phaeton

イギリス軍艦艇が訪問した目的は、まもなく長崎に到着する予定だったオランダの貿易船2隻を待ち伏せして捕えることでした。

では、なぜイギリスはオランダと戦ったのでしょうか?

19世紀初頭のヨーロッパの歴史は非常に複雑です。要約するとナポレオン戦争の間、イギリスはフランスと戦争中で、オランダはナポレオンの支配下にあり当時はイギリスの敵でした。そこでイギリスは、アジアでのオランダの貿易ルートを攻撃することに決めたのです。

イギリス船のフェートン号が初めて到着した際、彼らはオランダ国旗を使って長崎港に入港したため、そこにいたオランダの代議員と日本人は船の到着に驚きました。なぜなら通常オランダ船は、この時の2ヶ月前には日本に到着していたからです。しかし彼らは特に疑いもせず、小さなボートでイギリス船のところまで行き出迎えました。

オランダの代議員がフェートン号に近づくと、イギリス軍は彼らに銃を突きつけ、オランダ人に付き添っていた日本人の乗組員は、ボートから水の中に飛び込み避難しました。イギリス人はオランダ人の人質を拘束し、食料や供給品、水を要求します。そしてフェートン号は大砲を発射して日本人やオランダ人を威嚇しました。イギリス船の指揮官であったペリューは、要求が通らないのであれば長崎港にある日本船と中国船を破壊すると脅迫したのです。

ペリュー艦長

ペリュー指揮官

‟フリードウッド・ペリュー”は、1808年7月にフェートン号の艦長になったばかりでした。彼の父親もまたイギリス海軍の高官であり、自身の地位を使って息子を昇進させていました。ペリュー艦長は自分の乗組員に対しては過度に厳しいことで有名で、実際に1814年にはその厳しさが原因となり乗組員が彼に対して暴動を起こします。その後暴動は治まりましたが他にもいくつかの事件が起こり、それが原因で1822年からペリュー艦長は約30年間船を指揮することができなくなりました。

日本の対応

1808年、ペリュー艦長が要求した際に長崎では当時、現地の日本の長官であった松平康秀は成す術がありませんでした。その理由は、10月の時点で少なくとも長崎に1,000人いるはずだった日本軍の守備隊がわずか100人しかいなかったからです。さらに海岸防衛は役に立たず、長崎港の大砲の多くは老朽化していたため機能していませんでした。康秀は8,000人の武士と40隻の日本船を現地から長崎に送り、フェートン号に立ち向かうよう指示をしますが、援軍がそこへ到着するには数日かかると予想されていました。

そこで康秀はイギリスの要求に応じることを決め、それらの物資を与えました。ペリュー艦長はオランダ人の人質から、その年にオランダ船が長崎には来ないことを知らされます。10月7日にイギリス人は人質たちを解放して長崎を離れることに決め、日本の援軍はイギリス人と対決する時間には到着しませんでした。

日本への影響

この事件で死傷者がでることはありませんでしたが、日本人は海岸防衛を改善する必要があるということを思い知りました。そして海岸防衛の強化を決め、外国船を追放する新しい法律を定めることに取り組んでいました。松平康秀は事件に対する責任を負い、切腹をします。

いくつかの報告によると、他のイギリス船は1814年にオランダの貿易独占をやめさせるために再び長崎にやって来たようです。もしイギリス人が彼らのやり方で強要しようとすれば、日本人は暴力で対応するだろうとオランダ人に告げられました。

1808年と1814年に起きた事件の後、今後また遭遇する可能性があるため日本人通訳者は英語を学ぶべきだと決められ、またロシア語の勉強もするようになりました。そして日本人は蘭学だけでなく、他の国からも外国の文化を取り入れたいと考えていました。 1814年にはオランダ語の通訳者であった本木庄左衛門という日本人が、日本で最初の英和辞典の編纂を割り当てられ、そこには約6000の言葉が記されていました。

 

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