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日英の歴史 1600年 イギリス人侍「三浦按針」

あるイギリス人男性の初来日「William Adams」

前回はイギリス人と日本人が初めて出会った時のことについて書きました(1587年)。今日はその次に起こった出来事、‟あるイギリス人男性の初来日”について書きたいと思います。

知っている人もいるかと思いますが、日本に初めて来たイギリス人は‟ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)という名の男性でした。以前に「イギリス,英国」という国名の由来に関する記事を書いた際に彼について少し取り上げました。この記事に興味がある方はこちらをご覧ください。

実際にこの「ウィリアム・アダムス」について記事を書いている人や紹介している人がたくさんいるように、彼は日本でも認知度の高い人物です。今日は彼の知られざる物語や徳川家康との関係について紹介していきたいと思います。

彼はどんな人物?

ウィリアム・アダムスは1554年、ロンドン近郊にあるケント州ジリンガムで生まれました。父親は12歳の時に亡くなり、ウィリアムはその後すぐに造船所に弟子入りします。彼はそこで船舶の建造、天文学、航法を学び、20代前半には英国海軍に入隊しました。彼は1588年のアルマダの海戦の際に補給船で仕えた後、海上パイロットとなりました。翌年彼はメアリー・ハインと結婚し、子供を授かります。

彼はなぜ日本に来たのでしょう?

17世紀後半、イングランドとオランダは同盟国でした。両国ともプロテスタントであり、カトリック教であったスペインとポルトガルと争っていました。そしてイングランドとオランダは日本との取引に強い意欲を持っていました。日本に関する知識はトーマス・キャベンディッシュが数年前に購入した海図から来ている可能性があります(「日英の歴史 1587年」の記事でそれについて書いています)。そこでオランダは銀を手に入れるために南アメリカに5隻の船を送ることを決めますが、もしうまくいかなかった時は貿易を確立させるために日本に航行するつもりでした。

ウィリアム・アダムスはこの遠征に非常に関心を持ち、彼と彼の兄弟はオランダの乗組員として加わります。全部で5隻の船と500人強の乗組員がいました。ウィリアム・アダムスはこのうちの1つの船の操縦士となり、艦隊は1598年6月にオランダの港を出発します。

旅路

船路は、実際にトーマス・キャベンディッシュが1587年に使ったルート(南アメリカの下を通るルート)と非常に似ていました。要するに、旅は参事に見舞われたのです。途中ポルトガル人と遭遇して戦いになり、乗員の多くは争いや病気によって亡くなりました。悪天候により5隻のうち3隻のみが南アメリカのマゼラン海峡に到着しました。到達できなかった1隻はスペイン軍に捕らえられ、もう1隻はロッテルダムまで戻りましたが生き残った乗員はわずか36人でした。

その後も3隻の遠征船は旅を続けました。旅の途中、ウィリアム・アダムスは “Liefde号”という名の他の船に乗り換えます。そしてこの3隻はエクアドルの海岸から再び出航する予定でしたが、”Liefde号”と”Hoope”と呼ばれる別の船だけが集合地点のランデヴーに到着します。この時ウィリアム・アダムスの兄弟はHoopeに乗っていました。

そして最後の2隻は日本を目指して航海することに決めます。1599年11月の時点で、彼らは旅を続ける前にいくつかの島(おそらくハワイ)に停まりました。残念ながら台風によりHoopeは沈没し、Liefde号だけが無事でしたが船は破損していました。1600年4月、九州の大分県の海岸にLiefde号が到着しますが、この時乗組員はひどい有り様でした。Liefde号にいた約100人の乗員のうちわずか24人は生き残りましたが、中には間もなくして亡くなった男性もいました。ウィリアム・アダムスと他少人数の男性のみが自分の足で立つことができたのです。

ロッテルダムから日本までの経路(青色は日本とイギリス)

最初の出会い

4月19日、ウィリアム・アダムズを含む何人かの乗組員を乗せた船が上陸し、地元の日本人とポルトガル人の司祭達に会いました。司祭はすぐにウィリアム・アダムスと男性達がイングランド人とオランダ人であることに気づきましたが、「彼らは海賊である、処刑するべきだ」と日本人まで伝えました。しかし日本人はそれを拒否します。

徳川家康は当時、江戸の大名であり乗員を大阪城に監禁するよう命じました。そして2人の乗員に話を聞くため、彼の元へ連れて来るように命じたのです。

そしてLiefde号のすべての貨物が押収されました。貨物の中には羊毛布、ガラスビーズ、眼鏡などが含まれており、最も高価なものは19個の青銅製の大砲、5,000個の砲弾、500個のマスケット銃、いくつかの鎖かたびら(鎧形式の防具の一種)でした。歴史家によると、この大砲は数ヶ月後の関ヶ原の戦いで徳川家康によって使用されたそうです。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/De_Liefde_Huis_Ten_Bosch2.jpg

長崎のハウステンボス にある”Liefde”のレプリカ

数年後、ウィリアム・アダムスがイギリスにいる妻に宛てた手紙(このサイトから見れます)によると、1600年5月から6月にかけて彼が徳川家康に3度会っていることが分かっています。

彼らの最初の会話

ポルトガル語の通訳者は、英語やオランダ語と同様にポルトガル語も話せるウィリアム・アダムスのために通訳をしました。最初、家康は彼が日本に来た経緯をとても知りたがっていたため、ウィリアムは航海したルートを地図上で示した際、家康は彼の言うことを信じていませんでした。しかし家康は、さらに詳しく知りたいと興味を持つようになります。

ウィリアム・アダムスは手紙の中で自身のことを「初めて会った時から家康に好評だった。」と述べていました。家康はウィリアムに対し、どこの国の出身なのか、その国の名前、またイングランドは戦争をするのかと尋ねたところ、ウィリアム・アダムスは「イングランドはスペインとポルトガルと争いをしていたが、他の国との関係は平穏であった」と話しました。

家康がヨーロッパについて学ぶ

家康はヨーロッパについて多くのことを尋ねました。ポルトガル人の司祭は、ポルトガルとスペインはヨーロッパで最も強い力を持っていると日本人に伝えましたが、ウィリアムの話によるとこれはまったく違っていました。家康はヨーロッパの政治情勢を知り、ポルトガル人が嘘をついたことに気付き、さらにはポルトガルとスペインには敵がいること、反カトリック教が存在することも知りました。また、イングランドとオランダがポルトガルほど宗教に熱心ではなかったことも明らかになります。

ウィリアム・アダムスが徳川家康と初めて出会った場所

ウィリアム・アダムスは、イングランドとオランダが日本との取引を望んでいると述べました。ポルトガル人は貿易のために日本まで武器を持って行きましたが、武器を売る代わりに日本でのカトリック教の容認を申し出てきました。この時家康は、カトリック教を容認せずに取引する方法があることに気づきました。ウィリアム・アダムスによると、家康と一緒に真夜中まで多くのことについて話し合ったそうです。

ポルトガル人の司祭はウィリアム・アダムスは危険な人物であり、死んだ方がいいと何度も主張していました。しかし家康は、ウィリアム・アダムスは日本に対して悪事をしたことはなく、イングランドはポルトガルの敵であり日本は敵ではないと言いました。おそらくポルトガル人は、ウィリアム・アダムスの言葉が家康に影響を与えるだろうと心配していたのでしょう。その後、ウィリアム・アダムスと残りの乗員は刑務所から解放されました。

家康はLiefde号をすぐに江戸へ帆走するよう命令します。その後、船は順調に運航していましたが、江戸で停泊していた際に損傷と腐敗が原因で間もなくして船は沈没してしまいます。

家康は、ウィリアム・アダムスからさらに多くの知識を得るために熱心になっていました。そこでアダムスに航行術や幾何学などを教えてほしいと要請します。アダムスが日本語を流暢に話せるようになると、家康はポルトガル人の司祭達の通訳の役割を減らしました。実際に数年後、家康の通訳をしていたジョアン・ロドリゲスという人物の代わりにウィリアム・アダムスを通訳者とヨーロッパ諸国の顧問として抜擢します。

新日本海軍

家康は1604年、アダムスと他の仲間達に日本に新しい船を作るよう命じました。これが日本初となる西洋式の船です。家康は船が完成した際、来年にはさらに大きな船を作るよう命じ、実際にそれが完成した時には家康は非常に喜んだようです。家康はアダムスとその仲間達の働きぶりにとても好意を感じました。Liefde号の乗員のほとんどが1605年に日本を離れることが許されましたが、家康はアダムスの帰国を許可しませんでした。

そして徳川家康はウィリアム・アダムスを侍にしたのです。彼は横須賀に250石(石=質量の単位)に値する土地と「旗本」の称号をアダムスに与えました。家康は2本の刀を渡すと「今からあなたは‟ウィリアム・アダムス”ではなく‟三浦按針”という名の日本人に生まれ変わった」と伝えます。ウィリアム・アダムスの仲間の一人であったヤン・ヨーステンというオランダ人も旗本の称号を与えられました。家康はアダムスまで「私に用がある時にはいつでもこの城に入ってもよい」と伝えました。

アダムスとヨーステンは母国に帰ることは許されませんでしたが、他の東南アジア諸国との貿易を確立することは認められ、どうやら2人は貿易でたくさんのお金を稼いだようです。また、帰国を諦めていたアダムスには再婚する自由があり、家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘‟お雪”という日本人女性と結婚しました。彼は日本にジョセフという息子とスザンナという娘がいました。

アダムスの日本での生活

アダムスは、自らの言葉で日本と日本人について次のように綴っています。

「この日本国の人々は、温厚で非常に礼儀正しく、そして戦争では勇敢であった。彼らの正義は罪人には厳しく偏見を持たない。そして法に従い厳格に刑を実行している。この国の人々は偉大な礼儀によって統治され、世界にはこれほど統治が礼節である国はない。彼らは宗教の中では迷信的であり、そして国民は多様な意見を持っている。」

アダムスは1611年にインドネシアに何人かのイングランド入植者がいることを知り、彼らに日本とイングランドの取引を手伝ってもらうよう手紙を送りました。その2年後の1613年、‟Clove”と呼ばれるイングランド船が長崎に到着します。アダムスはこの船の船長ジョン・サリスに会いますが、彼との関係は非常に悪いものでした。結局のところウィリアム・アダムスは家康からイングランドへ帰国する許可を与えられましたが、彼が帰国することはありませんでした。残念ながらアダムスとサリスの関係はうまくいかず、アダムスはサリスが敵対していると知ったので帰国する際はサリスの船には乗らないことを決めたのです。

Cloveのイングランド人の乗員によると、アダムスの服装と行動はまるで日本人のようで、流暢な日本語を話していたそうです。この時アダムスは、徳川家康と彼の息子:秀忠に会わせるためにイングランド人の乗組員を彼らの元へ連れて行きました。秀忠はサリスに、イングランドのジェームス1世への贈り物として2つの鎧を渡しました。そのうちの1つは現在のロンドン塔に展示されています。

ロンドン塔に展示されている秀忠から贈られた鎧

家康と秀忠はイングランドに日本への貿易を許可しましたが、その後10年間の間(1613-1623年)にイングランドから日本へ渡った貨物船はたった3隻で、これは日本人にとってほとんど価値がなかったためイングランドと日本間の貿易を終了し、オランダだけが日本と取引を続けました。

アダムスは平戸にあるイングランドの取引工場で働いていました。彼はよく稼ぎ、ここではイングランドより中国の製品がよく売れたようです。

1614年頃、日本にいたポルトガル人はアダムスのことを恐れていました。彼は家康との会合によりアダムスにさらなる影響を与えていたと感じていたのです。ついにポルトガル人の司祭はアダムスを説得しイングランドへ連れ戻そうと試みましたが、彼はそれを拒みました。アダムスは家康に、ポルトガルのようにアジアへの拡大を目的とするスペインの試みについても注意を呼び掛けていました。やがて家康は、日本からカトリック教を追い払いました。

ウィリアム・アダムスは平戸に住んでいる間に病気になり、九州で1620年5月16日に55歳で亡くなりました。平戸にはウィリアム・アダムスの墓があります。2019年に日本の考古学者による発掘調査が行われ、この墓の中でいくつかの骨を発見しました。調査の結果、これらの遺骨は同時代の日本人の骨よりもわずかに大きいことが分かり、ウィリアム・アダムスのものである可能性が高いと言われています。彼はイングランドに戻ることはありませんでしたが、定期的にイングランドにいる妻と子供達に仕送りしていました。また、お雪との間に生まれた息子ジョセフは日本で彼の称号と土地を受け継ぐこととなったのです。

ウィリアム・アダムス(三浦按針)の墓

やがて平戸にあったイングランドの貿易工場は閉鎖され、イングランドと日本の関係は終わりました。

アダムスが与えた歴史への影響

ウィリアム・アダムスの物語は魅力的であり、彼が日本に来たタイミングとその状況もまた特別なものでした。彼は徳川家康の親友となり、日本の外交政策を形作り、また武士になることのできた貴重な外国人の1人でもあったのです。

残念なことにイギリスで彼のことはよく知られていませんが、ここ数年の間で彼の話に関心を示す人は少しずつ増えてきています。

アダムズの故郷イングランドのジリンガムでは、毎年彼を祝う日本の祭りが行われており、それは‟Will Adams Festival”として知られています。ウィリアム・アダムスの記念像は、1934年にジリンガムのWatling Streetに創られました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/%27Will_Adams_Memorial_and_Clocktower%27%2C_Gillingham_-_geograph.org.uk_-_47951.jpg

前に述べたように、ウィリアム・アダムスの領地は現在の横須賀の近郊、東京湾の入り口を見渡すことができる浦賀港の近くにありました。ここには‟安針塚駅”という名前の駅があり、この駅から約徒歩20分のところには塚山公園があります。

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ウィリアム・アダムスが亡くなった後、平戸に埋葬されましたが彼の息子ジョセフは塚山公園の丘の上にアダムスの記念碑を建てました(おそらくアダムスの希望でこの場所に建設したと言われています)。この記念碑は今もその場所で見ることができます。ウィリアム・アダムスはこの丘に登って港や東京湾に接近してくる船を見ることが好きだったと言われています。富士山や東京スカイツリー、東京湾が見渡せるこの公園からの景色はとても美しく、公園にはたくさんの桜の木があるため春にはきれいな桜の花を見ることもできます。

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横須賀にある領地に加え、ウィリアム・アダムスは東京の江戸城の近くにも家を与えられました。彼が所有していた家は現在の日本橋にあり、この地域はもともと按針町として知られていましたが、今は‟按針通り”だけが残っています。

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東京の日本橋には、70年程前にアダムスの屋敷の跡地に作られた記念碑が残っていますが、とても小さく狭い場所にあるので見落としてしまう可能性があります。もしこちらへ行かれる場合は注意して見てください。

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また前述したように、ウィリアム・アダムスの乗組員であったヤン・ヨーステンも家康から江戸城の近くに家を与えられました。実は「八重洲」はヨーステンの名前(耶楊子:やようす)が由来となっており、八重洲地下街の外堀一番通り沿いにはヤン・ヨーステンの記念像があります。彼はアダムスと同じ「旗本」の称号を与えられ貿易を許可されていましたが、酒癖が悪かったと言われています。そのため、ある時期で彼は家康からの歓迎を受けることはなくなりました。

静岡の伊東市では8月に‟三浦按針祭”が開催され、アダムスの像は近くの海辺にあります。この祭りはウィリアム・アダムスが船を建設し、打ち上げたことの功績を称える式典です。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/11/William_adams_bronze_ito_city.jpg

実は、伊東市と横須賀はジリンガムの姉妹都市になります。

ジェームズ・クラベルの有名な書籍「Shogun」は、ウィリアム・アダムスに基づいて書かれた本です。この本によって多くの人が日本と日本の文化に興味を持つようになり、 1980年代には「Shogun」としてテレビドラマ化され、非常に話題となりました。

 

 

Image Credit: Des Liefde Huis Ten Bosch2 by MarioR [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html) or CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], from Wikimedia Commons

Will Adams Memorial and Clocktower, Gillingham by Steve Wheeler / ‘Will Adams Memorial & Clocktower’, Gillingham

William Adams bronze ito city by Fulie012 [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], from Wikimedia Commons

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