EIKOKU GO

Everything British

EIKOKU GO

Everything British

ダンケルク Dunkirk 「ダンケルク大撤退」

イギリス人にとって歴史的な出来事

イギリス海外派遣軍 (第二次世界大戦)

多くの日本人はこの歴史的な出来事について知りませんが、イギリス人にとっては非常に重要な出来事なのです。今日はこの「ダンケルク」の実話について説明したいと思います。

背景

第二次世界大戦は1939年3月9日、ヨーロッパで始まりました。ドイツは9月1日にポーランドを侵略します。イギリスとフランスは、ポーランドを守ることを約束し、彼らはドイツとの戦争を宣言しました。ロシアはドイツと中立条約 (独ソ不可侵条約)を締結し、一方でアメリカは戦争に関与しないと決めていました。ウィンストン・チャーチル首相は、アメリカが味方としてイギリスに加わることを望みましたが、アメリカはそれを拒否したのです。

1939年の秋、イギリスとフランスはナチス・ドイツとの戦争に備え、戦いの準備を始めていました。イギリスの主要軍隊はフランスへ行き、フランスの国境を守っていました。当時のイギリス軍とフランス軍は「連合軍(英語:Allied Troops)」と呼ばれていました。イギリスとフランスは第一次世界大戦の時と同じように、フランスを敵の攻撃から守ろうとしていたのです。この第一次世界大戦は塹壕戦(英語:Trench Warfare)でした。最初の数ヶ月の間、大きな戦いは起こりませんでしたが、多くの人がこの時代を“まやかし戦争”(英語:The Phoney War)と呼びました。

ウィンストン・チャーチル首相

1940年5月

1940年5月、突如ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスを攻撃します。オランダ、ルクセンブルク、ベルギーは中立国であり、オランダとルクセンブルグは5月10日にドイツに降伏します。フランスとドイツの国境の大半は守られていましたが、ここで予期せぬ事態が起こります。ベルギーのアルデンヌの森は攻撃から守る準備をしていなかったのです。これはフランス軍は、戦車と軍隊がこの森を通ることはかなり厳しいと考え、この区域は守備の範囲外でした。ドイツ軍はベルギーを侵略した後アルデンヌの森を突き進み、数日後にはフランスを侵略することに成功しました。この出来事にイギリスとフランスは驚きました。そしてドイツ軍により、イギリス軍とフランス軍は他の軍隊と引き離され、包囲されてしまいます。

5月16日~21日までにドイツが侵略したエリア

ダンケルク

ドイツ軍は急速に進撃してきたため、イギリス軍とフランス軍はそれに対応することができず、フランス軍は急速に崩壊していきました。これは士気の低下と、指示が伝わらなかったことが原因だと言われています。そこでイギリス軍とフランス軍は撤退(英語:Evacuation)することに決めました。イギリス政府は、フランス軍が編制できず、フランスがドイツに奪われる可能性が高いと考え、イギリス軍隊の避難計画を立て始めたのです。

その後5月26日までに、フランスの町ダンケルク(英語:Dunkirk)の周辺には40万人のイギリスとフランスの軍隊が立ち往生していました。

大撤退

イギリス人は撤退することを計画し、ドイツがダンケルクと軍隊を捕らえるには約2日間はかかると推測しました。彼らは約45,000人のイギリス軍を救助できると推定しました。イギリス海軍はダンケルクに向かい、軍隊を助けてイギリスに連れて帰りますが、そこには多くの問題がありました。港が非常に浅かったため大型船は港に接近することができなかったのですが、なんとか船は港の小さな波止場に着き、満潮時に接近することができました。この時ドイツの空軍は、空中から船や軍隊を爆撃していました。

多くの船が沈没した

5月26日~28日までに、海軍は約2万5000人の軍隊を救出しました。イギリスのチャーチル首相は海軍に、フランス軍とイギリス軍を同じ数だけ救出することを命じます。彼はこれにより、ダンケルク周辺で戦い、防衛するフランス軍の士気を高めてくれることを願っていたのです。

イギリスとフランスの軍隊は、ドイツ軍から海岸区域を守るために懸命に戦っていました。一方でイギリス空軍は、空中でドイツ軍の空軍と戦っていました。空軍は海軍の船を可能な限り守ろうとしていましたが、多くの船が沈没してしまいます。イギリスとフランスの軍隊が周辺を守る時間が長くなればなるほど、避難する時間も長くなります。しかし、ベルギーは5月28日にドイツに降伏しました。これは、ダンケルクの東の地域を守らなければならなかったイギリス軍隊に、さらに大きなプレッシャーを与えることとなります。

ダンケルクの奇跡

イギリス政府は民間人に船の貸出しを要求しました。海軍は、浅瀬に接近するために小型船を使い、海上で待機している軍隊を乗せて沖の大型船まで移動させました。約665の小型民間船が、イギリスとフランスの軍隊を救助するために海軍によって使用されたのです。民間人の中には、海岸から直接軍隊を救出するために、ボランティアでフランスに帆走した人もいました。これらの船舶は「The Little Ships」と呼ばれていましたが、今でもイギリスの港で見ることができます。

イギリス軍隊の人数が多すぎてスペースがない状態

この撤退は予想以上に長く続きました。これはドイツ軍が攻撃を遅らせ、ヒトラーが戦車に撤退を命じたからです。なぜヒトラーが数日間攻撃を停止するよう軍隊に命じたのかは未だに不明であると言われています。ドイツ軍はこれまで急速に進撃したため、援軍を待つことと補給に時間を費やす必要があったようです。ドイツ軍はまた、多くの戦車や軍隊を失っていました。多くの歴史家は、これがアドルフ・ヒトラーの戦争において最大の失態の1つだと考えています。これによりイギリスとフランスは、より多くの時間を避難に費やすことができました。

6月4日までに、イギリス海軍と小型船は338,226人の軍隊を避難させることに成功しました。このうちの約123,000人がフランス軍でした。

そしてついにドイツは6月4日の朝、ダンケルクを奪取します。この時、約4万人のフランス軍隊がダンケルク南部を最後の日まで守っていました。彼らフランス軍の戦いはとても優秀であり、避難の時間を長くするために時間稼ぎをし、多くの軍隊は彼らの勇敢な行動によって救われました。そして彼らはそこから逃げることはできず、ドイツ人に降伏せざるを得なかったのです。

イギリス空軍の有名な航空機「スーパーマリン スピットファイア」

余波

ダンケルクは、イギリス人にとって勝利ではなく敗北でした。イギリス軍はドイツ軍に見つからないよう、自分達の戦車や車、武器などを破壊せざるを得なかったのです。そのためダンケルクの後イギリスは戦車、武器、弾薬を新たに造る必要がありました。

ドイツ空軍によって約236隻のイギリス船が破壊されました。イギリス海軍は8隻の軍艦を失い、イギリス空軍(RAF)は106機を失いました。ドイツの空軍もまた航空機を失い、推測によるとドイツは262機を失ったと言われています。イギリス軍の68,111人が殺害またはドイツ軍に捕らえられ、約4万人のフランス軍も捕虜されました。そしてダンケルクの民間人1,000人も殺害されたのです。

イギリス軍がダンケルクから避難した直後の様子

しかしイギリスの多くの人々は、軍隊のほとんどが撤退したことを聞いてとても安心しました。チャーチル首相は6月4日、後に歴史に残る演説でこう言いました。“イギリスは決して降伏することはない、ヒトラーに立ち向かい戦い続ける”と。イギリスに戻った時、多くの軍隊は失敗に終わったと感じていましたが、国民は英雄のように彼らを歓迎しました。彼らは戦い続けるために生き残ったのです。

国民から歓迎を受ける軍隊達(1人はドイツ軍から盗んだヘルメットを着用しています)

ダンケルクから逃れたフランス軍には選択肢が与えられました。彼らはイギリスに留まり、シャルル・ド・ゴールの指揮の下で自由フランス軍と共に戦い続けるか、もし望むのであればフランスに帰国することができます。約3000人のフランス軍がイギリスに滞在することに決め、約12万人がフランスに戻りました。フランスは6月22日、ヒトラーに正式に降伏しました。これはイギリスと植民地である国だけがドイツと戦ったことを意味しているのです。

避難することができたフランス軍隊

その後戦争は1945年まで続き、連合国(イギリス、アメリカ、ロシア)は勝利を収めました。
次回はダンケルクが今なぜ重要なのか、“ダンケルクスピリット”(英語:Dunkirk spirit)とは一体何なのかを見ていきましょう。

 

関連記事

【最新】人気記事TOP5

イギリス英語TOP5

人気記事TOP5