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ケルト人

古代イギリス人について

ここではブリテン島の古代ケルト人についてお話しすると共に、ケルト人の由来や彼らに起こったことについて説明したいと思います。この記事にはイギリスの文化や歴史に興味がある人にとっては貴重な情報がいくつか書かれているので、少し長いですが最後まで読んでいただけたらと思います。

※この記事では‟イギリス”のことを‟ブリテン島”と呼んでいます。

歴史的情報

ケルト人には字を書く習慣というものがありませんでした。これは現代の私達が彼らのことを学ぶために必要である、ケルト人によって作られた資材や史料などがないことを意味します。ケルト人は書く代わりに物語を通して彼らの歴史を子供達に教えていました。この口述歴史の伝統は何世代にもわたって続き、今でもその物語のいくつかは人々に知られています。

私達が知っているケルト人にまつわる多くの情報は、彼らの主な敵でもあったローマ人によって書かれています。ローマ人は何百年もの間ケルト人との戦いを続けていたため、多くの詳細が残されているのです。但し、この情報の多くには偏りがあるため注意してください。

ケルト人の分布

ケルト人とはどんな人?

ケルト人とはローマ時代以前にヨーロッパの多くに住んでいた人々で、一つの民族ではありませんでした。彼らは同じ文化と同様の言語を共有する部族のグループであり、ケルト人は紀元前6世紀にブリテン島を征服し移住してきました。

以前に「イギリスの歴史~鉄器時代~」という記事で簡単な要約を書いているのでもし興味がある方はこちらからご覧ください。

ケルト人は戦争や戦闘能力を大きく重要視していた戦士でした。紀元前390年には「Senones(セノン)」と呼ばれるケルト族がイタリアを侵略しローマ軍を倒した後、ローマを略奪しました。

しかしその後300年以内にローマ人は勢力を増し、最終的にヨーロッパのケルト人の多くを征服し抹消したのです。

「ケルト」という言葉の由来は?

英語で「Celt」は古代ギリシャ語の「Κελτοί(ケルトイと発音)」という単語が由来となっています。「Κελτοί」という言葉は紀元前5世紀にギリシャ人が、ギリシャより北部の野蛮人だと見なされていた外国人を表す用語として使用していました。また、西ヨーロッパから来た外国人のことを言う場合にも使われていたようです。そのためこの言葉はネイティブであるイギリス人のことを指すのではなく、ヨーロッパ中の多くの人々のことを表す総称なのです。

紀元前330年から320年の間にマサイラのピテアスと呼ばれるギリシャの探検家がブリテン島の周辺を旅し、島の最初の史料を書き下ろしました。
マサイラのピテアスは、ブリテン島に住んでいた人々のことを表す際に「Πρετ(τ)αν(ν)οί(プレタニと発音)」という名前を書いていました。これはブリテン島の先住民が自身のことを示す際に使用していた言葉である可能性が高く、この言葉は後に「Βρίττωνες(ブリターニと発音)」になったと言われています。

最終的には紀元1世紀まで、ローマ人はブリテン島のことをラテン語で”Brittania(ブリタニア)”と呼び、ブリテン島の先住民のことを「Britton(ブリットン)」や「Brittos(ブリットス)」と呼んでいました。しかし現在では「Celt(ケルト)」という言葉がよく使われていますが、古代イギリスの先住民を指す言葉ではありませんでした。

「Celt」という言葉は18世紀初頭からよく知られるようになりました。その頃イギリスの古代史が人気となり、多くの人がローマ時代以前からイギリスの先住民のことを学びたがっていたようです。18世紀以来「Celt」という言葉はブリテン島の古代人と同義語となり、古代ギリシャ語である「野蛮人」を表す趣旨ではなくなりました。

ケルト人がブリテン島に来たのはいつ?

歴史家は、ケルト人は紀元前6世紀にはブリテン島に来ていたと信じています。侵略ではなかったようですが、ケルト人の集団はヨーロッパ大陸から徐々に移住してきました。ブリテン島にはケルト人が到着する前に「ビーカーピープル」として知られていた人々が住んでおり、彼らはストーンヘンジを建設した人々でもありました。ケルト人とビーカーピープルの間に対立があったのかは明らかではありませんが、短期間の間にケルト人はブリテン島の支配的なグループとなっていきました。

ケルト人は1人の王や女王、先導者には支配されておらず、彼らは部族の集まりでありケルト人同士で敵との争いと同じくらいよく戦っていました。ブリテン島に移住したケルト人はヨーロッパ大陸に住んでいたケルト人である「Continental Celts」とは対照的に、現代の歴史家にはよく「Insular Celts」と呼ばれています。

「Insular Celts」はブリテン島とアイルランドの島に住んでおり、ブリテン島に住んでいたケルト人は「Brythonic Celts」と呼ばれていました(またはBrytonicとも言います)。またアイルランドに住んでいたケルト人は、「Goidelic Celts」と呼ばれていました。

後にBrythoic Celts は”Brythons”、Goidelic celts は”Gaels”として知られるようになりました。

これはローマ時代以前、ブリテン島で異なるケルト族が所有していた領土の地図です。赤色の領域はBrythons、緑色はGaels、青色はピクト人の領域を示しています。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0e/Map_Gaels_Brythons_Picts.png

ピクト人はブリテン島先住民の別の族でした。このピクト人についての詳細はまたの機会に書きたいと思います。

ケルト人の見た目は?

ローマ人によると、ケルト人戦士はローマ兵士よりも身長が高く、ケルト戦士の平均身長は約180cmに比べ、平均的なローマ兵士はわずか170cmしかなかったようです。これはケルト人がローマ人よりも肉に含まれるようなタンパク質を非常に多く摂取していたため、成長に著しく差があったのだろうと言われています。

また、ブリテン島で出会ったケルト人は色々な髪の色をしていたようです。茶色、金色、赤髪の人がおり、肌はとても色素が薄いと言われていました。また南ウェールズにいたケルト人の1つの部族は、南ヨーロッパ(現在のスペイン)でローマ人が出会ったケルト人によく似た顔色と黒い髪だったと言われています。ケルト人は平均的なローマ兵士と比べるとより筋肉質であり、ローマの歴史家もケルト人の女性は凶暴で力強い印象だと話しています。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fe/0910_Tracht_der_Kelten_in_S%C3%BCdpolen_im_3._Jh._v._Chr.JPG

ケルト人男性は髪は長く伸ばし、口上の髭以外の全ての体毛を剃っていたようです。また彼らは自身の容姿に大きな誇りを持っており、ケルト人の中では太っている人は地域から追放されるとして知られていました。実際に考古学者はケルト人が身に着けていたベルトを見つけ、このベルトがきつすぎると体重を十分に落とすまではその人物を追放していたと言われています。

ローマ人によると、通常ケルト人は青色の塗料で体を塗装する習慣があったと言われています。ケルト人戦士の多くは全身に複雑な柄の入れ墨や塗装をしており、戦闘中は上半身裸でタイトなズボンとベルト以外は何も身に着けていないのが一般的でした。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fe/0885_Der_keltische_Krieger_mit_T%C3%A4towierungen_im_3.Jh._v._Chr.1.JPG

私達が知っている彼らの生活様式は?

ローマ人はブリテン島周辺で約40部族のケルト族に遭遇したようです。彼らはすべて別々の部族であり、それぞれの部族には族長またはリーダーがいました。そして共通の文化を共有していましたが、中にはいくつかの違いもあったようです。

しかしながらすべてのケルト人は異教徒でした。現代、異教徒は単なる宗教であると信じている人が多くいますが、ケルト人にとって異教徒は宗教より偉大なものでした。異教徒には多くの宗教的要素があることは事実ですが、それよりも彼らの生き方そのものだったのです。古代異教徒についてはかなり細かい内容になっているので、また別の記事で書きたいと思います。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/25/Britain.south.peoples.Ptolemy.jpg

ブリテン島の様々なケルト族の領域

ケルト人は、恐れ、尊敬、崇拝をしなくてはならない多くの神がいると信じていました。興味深いことに紀元前390年にローマに侵入したケルト人は、ローマ人の神々の描写をあざ笑い、なぜローマ人が人間を模った神の像を作ったのか疑問に思っていました。ケルト人にとって神は人間とは大きく異なったものだと信じられていたため、彼らにとってそれは神には見えなかったのです。

またケルト人は農民でもありました。通常彼らは大規模な人口の集落は建設せず、町づくりには興味がありませんでした。紀元前55年にブリテン島に侵入したジュリアス・シーザーは、ブリテン島南部のケルト人が島にいるすべての部族の中で最も文明化しているように見えると述べました。彼らは小麦を栽培していましたが、さらに北方のケルト人のほとんどは肉を食し、動物の毛皮を着て生活をしていました。

ケルト人はよく宴を開催し、男性は大量の酒を飲むことで知られていました。古代、多くの人が強い度数のワインを薄めて飲んでいましたが、ケルト人はそれをせずに吐くまで飲んで酔っぱらうことを楽しんでいたようです。

彼らは動物の毛皮が敷いてある床に輪になって座り、戦士としての地位に応じた位置によく座っていました。酔っ払った後は大体喧嘩が発生します。戦士達は互いに戦い、時には重傷を負い、死ぬまで戦うことさえありました。ケルト人の社会で対立は紛争を解決する一般的な方法だったのです。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/39/Celtic_Village.jpg

ケルト人の村を再現したもの

ローマ人にとってケルト人の多くが原始的で野蛮人であると見なされていましたが、いくつかの点では非常に洗練されていました。特にケルト人は美しく華やかな青銅の芸術作品を作ることを得意としていました。いくつかのケルト人の芸術作品のクオリティは当時比類のないものでした。また彼らは神について非常に複雑な信念を持っており、ケルト人社会の祭司であるドルイドを非常に尊敬していました。ドルイドがある特定の日に戦うよう指示すれば、その予言にケルト人は従っていたほどです。

彼らの戦い方は?

ケルト人は戦いの前になると立ち上がり、剣や武器、盾で威嚇したり大声で詠唱し、大きな音のトランペットを使って戦場に恐怖を広めました。また彼らは恐怖心を見せずに自分自身を興奮状態にさせ、敵に向かって叫びます。これは戦闘が始まる前に敵の士気をくじくために行われていました。

ローマ人は厳格に統制され組織的な戦い方をしていましたが、ケルト人は全く正反対でした。戦士達が組織化された形態で戦うということは知られておらず、彼らはよく個々で荒々しく戦っていました。それは有能な戦士は自ら敵と戦い、自身の戦いの腕前を実際に証明すべきだと感じていたからです。最も一般的な戦術は敵の陣形を壊す意図で敵に向かって走り、できるだけ激しく攻撃することでした。ケルト人戦士の数が非常に多かったため、この戦術は最初の数回の戦闘で大きな効果を発揮しました。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:CelticChariot.jpg

ローマ人によると、ブリテン島のケルト人が戦車(戦闘用馬車)を使用していたということもよく言及されており、彼らの戦車の使い方は非常に熟練しているとも言われていました。戦車は敵の近くまで行き、敵をおびき寄せます。一度敵が近づく度に戦車は敵から少し離れ、その隙に攻撃をするというプロセスを何度も繰り返します。この戦術が何度も行われたため、ローマ人は反撃を妨げられ非常に疲れていました。

しかしローマ人が効率的な反撃のし方を身に付けると、ケルト人は敗北することが多くなりました。ケルト人は数では遥かに勝っていましたが、ローマ人は何度も勝利を収めていました。

ケルト人が話していた言語は?

「Britons」として知られているブリテン島ケルト人は共通の言語を話しており、現代英語では「Common Brythonic」と呼ばれています。ゲール人は異なる言語を話していましたが、それはCommon Brythonicとよく似ており、この古代言語を「Goidelic Celtic」と呼んでいました。

最終的には数百年に渡り、多くの言語(ウェールズ語、コーニッシュ語、ブルトン語、カンブリア語)がCommon Brythonicから発展しています。しかし現在これらのほとんどの言語はイギリスでは話されておらず、ウェールズ語のみが主要言語として続いています。

イギリスで話されている現代のケルト語について、さらに詳しく知りたい方はこちらの記事からご覧いただけます。

多くの言語(アイルランドゲール語、スコットランドゲール語、マンクス)もGoidelic Celticから発展したものですが、ネイティブの数が減少しているため、これらの言語も徐々になくなりつつあります。

ウェールズ語とアイルランドゲール語は発音が少し似ていますが、互いに理解することができません。これはウェールズ語が一般的なBrythonicから発展し、アイルランド語がGoidelic Celticから発展しているからです。ウェールズ語を話す人とコーニッシュ語を話す人同士が会話をすると、約10〜30%は互いに理解できる可能性がありますが、これはウェールズ語とコーニッシュ語の両方がBrythonic Celticから発展しているためです。
ケルト人の何人かはローマ人からラテン語を話すことを学びましたが、大半は彼ら自身の言語が残っていたようです。

ケルト人に何が起こったのか?

前にも言いましたが、ガイウス・ユリウス・カエサルは紀元前55年にブリテン島を侵略しました。しかしこの戦闘は非常に短く、ローマ人はすぐに去っていきました。そして西暦43年に再びローマ人が戻り、この時はブリテン島の征服を目的とした完全なる侵略でした。歴史家によるとこの時ブリテン島には約300万人が住んでいたと考えられています。

ローマ人がブリテン島に初めて来た時

ケルト族の一部はローマ人と協力することを決め、家臣王国となりましたが他の部族達はそれに猛反対しました。その後20年に渡ってローマ人はブリテン島の大部分を徐々に征服していきました。ケルト族である「Silures(シルレス族)」と「Ordovices(オルドビス族)」と戦いましたが、現在のウェールズにあたる地域を征服するにはいくつかの困難がありました。同時にブリテン島東部の「Iceni(イケニ族)」のブーディカというケルト族の女性が、60年にローマ人に対する反乱を導きました。この反乱は非常に大規模であったためブリテン島のローマ人のほとんどが敗北しましたが、最後の大きな戦いでローマ人はブーディカの軍隊を破ることとなります。西暦60年以降、ブリテン島のケルト人はもはや著しい手段ではローマ人に立ち向かうことができなくなっていましたが、その後30年の間にケルト人とローマ人の間ではいくつかの小競り合いが起こりました。

西暦100年頃までに、ローマ人は最北端の地域(現在のスコットランドにあたる地域)を除きなんとかブリテン島の全域を征服することに成功しました。ローマ人にとってこの最北端の地域を保つことは難しく、その理由は地形がブリテン島内で孤立しており当時先住民であったピクト人が反撃を繰り返してきたからです。そこでローマ人は西暦128年に「Hadrian’s Wall(ハドリアヌスの長城)」と呼ばれる壁を建設し、彼らの最北端の国境をピクト人から守りました。

410年にローマ人がブリテン島を占領した領域

最終的にローマ人は帝国を維持できなくなり、イタリアでローマ兵士が必要となったことから西暦410年にブリテン島を去りました。その結果、先住民のケルト人はブリテン島の支配権を取り戻したのです。ケルト人は約350年間ローマの支配下でしたが、彼ら自身の文化や言語、人々は生き残りました。ブリテン島の最南部はローマの文化と生活様式の要素を保持していましたが、間もなくして古いケルトの習慣が戻り、ブリテン島のその他の部分にあったローマの建物や道路は荒廃しました。

ブリテン島ケルト人の社会はもはや原始的な鉄器時代のものではなく進歩していました。青色の塗料で体を塗装する習慣が続いていたかは不明ですが、この頃までに戦車の使用をやめた可能性は高いと言われています。歴史家によるとこの期間中、ブリテン島ケルト人を「Romano-Britons」または「Celtic Britons」と呼ぶことがあったようです。少数のローマ人がブリテン島に残っていた可能性はあるものの、その大部分は去っていたということは覚えておいてください。また、現地のケルト人と結婚したローマ人はほとんどいなかったとも言われています。

5世紀初頭、ブリテン島は北部のピクト人と西部のアイルランドゲール人によって侵略され始め、ブリテン島のケルト人は自身を守ることができませんでした。この理由はローマ人が彼らに武器を所有することを禁じたため、ケルト人は先祖のように戦う経験も能力もなかったのではないかと言われています。また彼らは、ローマの占領が終わった後の最初の数年間は軍隊組織がなく、ローマ人に助けを求めましたがローマ人はそれを拒否しました。そのため西暦449年にブリテン島ケルト人の指導者の1人であった”Vortigern(ヴォーティガン)”は、2人のサクソン人の傭兵をブリテン島に招待しました。この2人の傭兵は兄弟で、”Hengist(ヘンジスト)”と”Horsa(ホルサ)”と呼ばれ、現在の北ドイツとして知られているヨーロッパ地域からやって来ました。当時その地域には、”Angles(アングル)””Saxons(サクソン)”、”Jutes(ジュート)”として知られていた3つのゲルマン民族が住んでいました。アングロサクソンについてはまた別の記事で詳しく説明したいと思います。

ヴォーティガンはヘンジストとホルサに報酬と引き換えにピクト人と戦うように頼むと、2人はそれに同意し多くの戦士を集結させました。その後すぐにサクソン人の傭兵はピクト人を破り、ヴォーティガンに多額の支払いを要求しました。ブリテン島ケルト人はこの要求に応えることができなかったため、サクソン人は代わりにブリテン島を征服することを決めました。

この頃から、さらに多くのアングル人とサクソン人の戦士がこの征服に参加するためブリテン島にやってきました。当初彼らはケント州など南部の征服に成功しましたが、西暦500年に”Ambrosius Aurelianus(アンブロシウス・アウレリアヌス)”として知られていたブリテン島の先住民の男がアングル人とサクソン人と戦い、大規模な戦いで彼らを打ち負かしました。おそらくこのアンブロシウスという男はローマ人かローマ人の子孫であり、彼がケルト人の一種であった可能性もありますが、歴史家達は「最後のローマ人」と呼んでいるようです。人はよく、この出来事は”King Arthur(アーサー王)”の伝説の由来であると言い、アーサー王はアングロサクソンの侵略者達から母国を守るために戦ったブリトン人であるとも言われていました。

しかしブリテン島ケルト人にとってこの勝利は短命なものとなり、数十年以内にはさらに多くのアングル人とサクソン人が到来し領土を占領し続けることとなりました。

この時代の歴史的記録物は少ないですが、西暦500年から600年にかけてブリテン島のケルト人がアングル人とサクソン人によって莫大な領土を奪われたということは確実に言えるでしょう。詳細は下の地図をご覧ください。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ee/Britain_peoples_circa_600.svg

600年のブリテン島

ブリテン島ケルト人はブリテン島西部に移住せざるを得なくなり、東部はアングロサクソンの王国となりました。この時ケルト人はまだ自身の王国を持っており、中でもよく知られているのは、現代の北イングランドに位置するStrathclyde(ストラスクライド王国)とRheged(レゲド王国)、現代のコーンウォールに位置するDumnonia(ドゥムノニア王国)、現代のウェールズに位置するGwynedd(グウィネズ王国)、Powys(ポウイス王国)、Dyfed(ダイフェド王国)です。ストラスクライド王国とレゲド王国は‟Yr Hen Ogledd”と呼ばれ「The Old North(昔の北部)」を意味します。

アングロサクソン人がブリテン島で莫大な領土を奪った後、多くのブリテン島ケルト人がコーンウォールとウェールズからフランス北部に逃げるために移住してきました。彼らはブルトン人として知られ、そのブルトン人が住んでいたフランス北部の地域はブルターニュとして知られるようになりました。ブルターニュで話されていた言語はブルトン語と呼ばれ、ウェールズ語やコーニッシュ語と同じ由来として発展しましたが、現在ブルターニュでこの言語を話すことができる人はほとんどいません。

ケルト人が移住してきた場所

アイルランドのゲール人として知られるケルトの人々に関しては、ブリテン島でローマ人の征服の影響をほとんど受けておらず、アングロサクソンの侵略からも免れました。大抵の場合ゲール人はブリテン島のケルト人の敵であり、何百年もの間にブリテン島の西海岸を何度も侵略していたようです。また彼らはマン島にも侵攻し、居住していました。

最終的にゲール人はローマ時代の間にブリテン島北部の一部を侵略しました。ローマ人は彼らを‟Scotti(スコッティ)”と呼び、ゲール人の文化がブリテン島北部に広がるにつれ、彼らの王国は何百年後には‟スコットランド”として知られるようになったのです。

ブリテン島ケルト人はアングロサクソン人によって絶滅させられたのか?

一部の歴史家によると、現在のイングランドである地域に住んでいたケルト人は6世紀にアングロサクソン人によって完全に絶滅させられたと言われています。この理論を裏付ける考古学的証拠も存在しており、アングロサクソン人によって征服されていたブリテン島地域のケルト文化は非常に短い時間で変化しました。またこの地域で話されていたケルト語もすぐになくなってしまいます。

しかし最近では、他の歴史家は現在のイングランドの地域ではアングロサクソン人がケルト人を絶滅したことを信じていないようです。DNAの研究により現代のイングランド人がまだ一定の割合でケルト族のDNAを持っていることが明らかになっており、ケルト人特有のY染色体ハプログループが検出されています。このYハプログループとはR1b-L21として知られており、R1b-L21の最高濃度はアイルランド、ウェールズ、スコットランド、ブルターニュで発見されました。下の地図からR1b-L21はイングランドでも見られますが、濃度は大幅に低いことがわかります。

Image by Eupedia

ほぼすべてのイギリス人がR1bハプログループ を持っており、その割合は平均すると約75%です。化学者によるとR1bは主に西ヨーロッパのもので、R1b-L21はケルト人独自のものです。またゲルマン人(アングロサクソン人)のR1b Y-ハプログループはわずかに異なり、R1b-S21と呼ばれることもあります。下の図はR1b-S21の地域を表しています。

Image by Eupedia

このようなことから一部の歴史家は、多くのブリテン島ケルト人の男性がアングロサクソン人との戦いで殺されたか、その後囚人として排除されたのではないかと考えています。アングロサクソンの戦士達はブリテン島ケルト人の女性を妻として連れて行き、新たに征服された領土に定住していたようです。その後、ケルト人とアングロサクソン人との間に何らかの統合があったかもしれません。アングロサクソン人によって占領された地域にはブリテン島のケルト人男性のDNAはもはや存在していなかったため、Y染色体ハプログループR1b-L21はイングランドではあまり一般的ではなくなりました。そのため現代のイングランド人はケルト人としては見なされていませんが、まだケルト人のDNAの一部を持っているのです。

中世後期のブリテン島ケルト人

要約すると、ほとんどのブリテン島ケルト人は6世紀と7世紀の間にアングロサクソン人から離れ西へ移動していきました。

11世紀までにイングランドとなったブリテン島の地域では、残りのブリテン島ケルト人の王国が征服されるか、またはイングランドの王国に統合されるかでした。

北部ではゲール人とピクト人が互いに統合し、近くであった残りのブリテン島ケルト人の王国を征服しました。 そしてブリテン島北部のこの地域は11世紀までにスコットランドとして知られるようになります。

アイルランドはローマ人によるブリテン島の征服とアングロサクソン人の侵略の影響をほとんど受けませんでしたが、バイキングはしばらくアイルランドの一部を侵略し居住していました。しかし最終的に、ゲール人はバイキングを撃退することに成功します。

ウェールズではブリテン島ケルト人はアングロサクソン人と戦った後、なんとか領土を保持することができました。何世紀にも渡りケルト人とアングロサクソン人の間では数多くの戦いがありましたが、この領土はケルト人が自身の王国を維持し、持ちこたえることのできたブリテン島唯一の地域でした。

中世以降、ウェールズ、スコットランド、イングランドの国境はほとんど変わりませんでした。

現代のケルト諸国

ウェールズ、スコットランド、北アイルランド、アイルランド共和国は「The Celtic Nations(ケルト諸語圏)」と呼ばれています。明白な理由から、イングランドはケルトの国ではなくアングロサクソンだと考えられています。またブルターニュ、コーンウォール、マン島はケルト諸国の一部です。

この‟Nation”は‟国”を意味するものではなく、‟同じ文化と言語を共有する人々を特徴づける領域”という意味があります。そういった意味で、コーンウォール、マン島、ブルターニュは国ではありませんが「Nation」と呼ぶことができるのです。

北アイルランド、アイルランド共和国、マン島はゲーリックケルト語、スコットランドは部分的にゲール語とピクト語、 ウェールズ、コーンウォール、ブルターニュはブリトニックケルト語です。すべてのケルト諸国の中でもウェールズは、ケルト文化と言語を最も長く維持することができたようです。またケルト諸国出身のイギリス人は強いアイデンティティを持っており、それはラグビーなどのスポーツや伝統的な音楽を通して見ることができます。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6e/Map_of_Celtic_Nations-flag_shades.svg

現在のケルト諸語圏

ウェールズ、スコットランド、アイルランドの血筋はわずかに異なりますが、通常この国の人々は互いに自然な絆を感じていると言います。そういった意味ではイングランドは完全に別として見られているのです。

結論

現在も自身を最初のブリトン人だと考えているウェールズ人は数多くいます。DNAの研究により、ウェールズの一部の地域ではイギリス全土では最も古く変化を示さないDNAが存在していることが明らかになっているため、ある意味真実とも言えるでしょう。興味深いことに「Britain」を表す現代のウェールズ語は「Prydain(プラダインと発音する)」です。言語学者によるとこの単語は、元のケルト語の「Pretani」が進化してできた単語だと言われています。

以上を踏まえて、古代ブリテン島について興味がある人はウェールズに行って学ぶことをお勧めします。

 

Image credit: Map Gaels Brythons Picts by User:Asarlaí [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)]

0910 Tracht der Kelten in Südpolen im 3 by Silar [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]

0885 Der keltische Krieger mit Tätowierungen im 3 by Silar [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]

Britain.south.people.ptolemy by myself [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]

Celtic Village by National Museum Wales [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)]

CelticChariot by Johnny Shumate https://en.wikipedia.org/wiki/File:CelticChariot.jpg

Britain peoples circa 600 by User:Hel-hama [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)]

Haplogroups R1B-L21 and RS-21 by Eupedia

Map of Celtic Nations-flag shades by QuartierLatin1968 [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)]

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