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ウィンストン・チャーチル Winston Churchill

歴史上最も有名なイギリス人

名前:Sir Winston Leonard Spencer-Churchill
ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル

出身:イングランド、 ウッドストック、ブレナム宮殿

誕生:1874年11月30日

死没:1965年1月24日

職業:首相

ウィンストン・チャーチルは歴史上最も有名なイギリス人です。2002年にBBCは、世界中で最も偉大なイギリス人は誰かを調べるために、世論調査を実施しました。その結果、ウィンストン・チャーチルが第一位でした。チャーチルはイギリスで最も称賛されているイギリス人なのです。

どうして彼はそんなに偉大な人物なのか?

チャーチルは50年もの間政治に携わり、4つの戦争では名誉を称えられ、50冊の本を書き上げ、ノーベル文学賞を受賞、そして数百点もの絵画を描きました。ウィンストン・チャーチルは歴史上、誰よりも興味深い人生を送った1人であると言っても過言ではありません。

では、そんな彼について詳しく見てみましょう。

1874-1899

1874年ウィンストン・チャーチルは、著名で権力を持った家庭「マールバラ公爵家」の一人として誕生しました。彼が生まれたのはヴィクトリア時代(1837~1901年)で、大英帝国が最も偉大であった時期でした。チャーチルは若い頃に良い教育を受けていましたが、一方で言語障害に苦しんでいました。彼は重度の滑舌障害(舌足らず)があり、これが演説の際に大きな影響を与えていたのです。最終的にこの障害を克服することができましたが、その後も僅かな障害が残りました。

チャーチルの父親は45歳の若さで亡くなりました。その後すぐにチャーチルは、この世に自分の生きた証を残しておくために何かをしようと決心したのです。母親はチャーチルに対して、あなたは偉大なことを成し遂げる運命だと言い続けていました。そして彼は1893年に騎兵に奉仕するため軍隊に加わり、キューバ、インド、スーダンなど世界中の多くの国を訪れました。しかしスーダンでの経験の後、彼は1899年に軍を辞任しました。

騎兵の軍服

彼は同年に政界に入ろうとしましたが、オールダム(イギリスの町)の地方選挙で当選することができませんでした。その後すぐにイギリスと南アフリカのボーア州との間で別の戦争が起こり、これは‟ボーア戦争”(1899~1902年)と呼ばれました。チャーチルは従軍記者(新聞記者)になり、南アフリカに旅立つことを決めます。現地で敵に捕まりましたがすぐに脱出し、彼の脱走はイギリスのニュースで取り上げられ、チャーチルはこの時ちょっとした英雄となり話題になりました。

1900-1939

ボーア戦争後、チャーチルは再び政界に入ろうと決心します。そして1900年にオールダムの選挙で見事当選を果たします。その後彼は、政治的キャリアを積み上げ、1911年には海軍大臣(イギリス海軍の行政を管理する職)に任命されました。第一次世界大戦は1914年に始まり、チャーチルはこの計画に大きく関与し、また初代戦車の開発にも携わっていました。 1916年、チャーチルは‟ガリポリの戦い”(トルコで起きたイギリス軍とトルコ軍間の戦闘)の有力な計画者の一人でしたが、この計画は参事を招き、多くの兵士が命を落としました。チャーチルは責任を負い降格しますが、1916年前半まで軍の最前線で任務を務めました。そして彼は1917年、別の政府の地位を与えられることとなります。

第二次世界大戦時

この頃から1939年までの間はチャーチルの評判は下がり、国民は大きな参事となったガリポリの戦いと、彼がこの戦いに関わっていたということを忘れることはできなかったのです。しかし1930年代になるとドイツではヒトラーが権力を握っていました。チャーチルはすぐにヒトラーが危険人物であることに気づき、イギリス政府にヒトラーとナチズムについてイギリスに警告するよう試みました。しかし多くの政府はチャーチルの警告を無視し、行動を起こすことはなく、彼のことを‟戦争挑発者”と呼ぶ人が多くいました。しかしその後の1939年、ドイツはポーランドを侵略します。ポーランドはイギリスの同盟国であり、これが第二次世界大戦の始まりとなったのです。

1940-1945

ヒトラーとドイツに関するチャーチルの警告を無視した当時の首相ネヴィル・チェンバレンは辞任しました。 そして1940年5月、チャーチルは65歳で新しい首相に就任します。チャーチルは長い間に渡りヒトラーに対する警告を呼びかけ、ついに正しいことが証明されました。そして彼はナチスドイツに立ち向かい、戦いを決意したのです。

第二次世界大戦の始まりは悪い方向へ向かいました。1939年から1940年にかけて、多くのヨーロッパ諸国がナチスに降伏したのです。1940年にイギリスとフランスはダンケルクの戦いで敗れ、その後すぐにフランスはヒトラーに降伏しました。これはイギリスがナチスドイツと戦った唯一の国であることを意味しています。(※この時アメリカは第二次世界大戦に関与していなく、ロシアはドイツと不可侵条約を結んでいました)

ヒトラーはイギリスに平和協定を差し出そうとしました。つまりこれはドイツとイギリスが戦争をやめ、ドイツはイギリスをこれ以上攻撃しないことを意味していました。イギリス政府の多くはこの提案の受諾が可能であると考え、チャーチルに大きな圧力をかけましたが、彼は断固としてこれを拒否しました。この時イギリス国民もチャーチルと同じ考えを持っていました。チャーチルは平和協定を決して受け入れることはなく、イギリスはドイツに立ち向かう義務があるのだと主張しました。そしていかなる平和も短命であり、やがてドイツがイギリスを侵略し占領することを彼は知っていたのです。

ウィンストン・チャーチルは自由主義国の象徴的指導者であり、ナチズムと戦う人々の象徴的指導者になりました。チャーチルは戦い続けることを心に決め、この時行われた彼の演説は国民にとって大きな励みとなり、世界中の人々がラジオに耳を傾けました。彼は優れた演説をする雄弁家でした。フランスの敗北後ドイツはイギリスへの攻撃に焦点を当て、ドイツ空軍はイギリスを攻撃し始めました。その後しばらくして、ドイツ空軍はイギリスの主要都市を爆撃し始めたのです。

チャーチルの有名なサイン

この時、イギリス人にとってはどん底の時期でした。多くの人は、イギリスが戦争に負ける可能性が大いにあると考えていました。この時代は‟バトル・オブ・ブリテン(1940年)と呼ばれていました。 6月4日、ウィンストン・チャーチルは” We shall fight on the beaches”という誰もが知っている演説を行ったのです。

以下、演説の一部を抜粋しました。(下の動画の1分16秒から、この抜粋した演説が始まります)

‟我々は最後までやる。フランスで、そして海で戦う。日々自信と力とを強めつつ空で戦う。いかなる犠牲を払おうとも我らの島を守る。我々は海岸でも、水際でも戦う。野で街頭で丘で戦う。・・・・・我々は決して降伏しない。”

この演説は、イギリス国民に戦争の継続を決意する後押しとなりました。またアメリカのような他の国々に対して、イギリスは決して降伏することなく戦い続けるというメッセージを送りました。ナチスドイツに征服された多くの国の人々も、チャーチルの演説によって希望を持つことができたのです。それはまた、ヒトラーに対する反抗のメッセージでもありました。ヒトラーはチャーチルが屈服しないこと、そしてイギリス国民の精神も崩壊できないことをすぐに悟りました。このスピーチは20世紀で最重要なスピーチであると言われています。

バトル・オブ・ブリテンは、1940年10月の終わりに幕を閉じました。ドイツ空軍はイギリス空軍を倒すことに失敗し、ヒトラーはイギリスを侵略する計画を放棄したのです。1941年にドイツはロシアを侵略し、1942年には北アフリカ戦線(北アフリカで起こったイギリス軍とドイツ軍との戦い)ではイギリス軍が徐々にドイツ軍を撃退していました。そして1943年にはアメリカがヨーロッパで戦争に参加し、戦争は1945年5月まで続きました。そして最終的にドイツは連合国(イギリス、ロシア、アメリカ)に降伏することとなります。

1945年5月8日 ヨーロッパの終戦日

1945-1965

戦後、チャーチルは次の国政選挙に負けました。イギリス国民は彼が首相として継続することを望んでいませんでしたが、一方で多くの人は彼が国を救ってくれたと感じていました。しかし戦争は終わり、首相も変わる時が来たのです。しかし1951年に彼は別の選挙で勝利し、それから1955年まで再び首相として務めました。その後チャーチルは病を患い、首相として任務を果たすことができなくなり、80歳で首相を辞任しました。

彼は辞任後、かなり活発に行動していました。絵画を描くことと、フランスのリビエラへの旅行を楽しんでいました。しかし1965年、チャーチルは脳卒中を起こし、倒れてから9日後の1月24日に自宅で息を引き取りました。この1月24日は、彼の父親が死亡した70年前とちょうど同じ日でした。ウィンストン・チャーチルの葬儀は歴史上最も盛大なものとなり、葬儀には世界中の王や首相達112人が出席し、ヨーロッパに住む3億5,000万人が葬儀の中継をテレビで見ていました。そして国中が深い悲しみに包まれたのです。

彼が残した遺産

ウィンストン・チャーチルはイギリスの歴史上で最も大きな遺産を残しました。現在、何人かのイギリス人は、チャーチルは善人ではなく数々の悪いことをした人物だと言われています。多くのイギリス人が、彼が人として完璧ではなく間違いをおかしたことを知っています。しかし現代の価値観や概念で、過去の出来事や歴史上の人物の良し悪しを判断することは難しいと人々は感じたのです。当時のチャーチルの意見は、現代で受け入れられないものが多いと思いますが、生前は一般的な考えとして通っていました。彼はずっと完璧な男ではなく、他にも多くの欠点があり、彼と仕事をするのは大変でした。そしてよく酒を飲み、非常に頑固なところがあり、葉巻を大量に吸っていました。また、人生の中で大きな間違いを犯したこともあります。イギリスの人々はこれらのことを理解していますが、彼らはこれが彼の性格の一部であると受け止めています。結局のところ、彼の人生を通して彼の善行が彼自身の短所をはるかに上回っていたと人々は確信しているのです。

ビッグベンの前にあるチャーチル像

多くのイギリス人は、ウィンストン・チャーチルが暗黒期からイギリスを救い出す責任があったと考えていました。チャーチルがヒトラーに立ち向かわなかったら、そして彼が1940年に偉大な演説をしていなかったら、イギリスは希望を失っていたのではないでしょうか。もしかしたらあの時イギリスは降伏していたかもしれません。これはナチスドイツがヨーロッパのすべての国を、そしておそらくロシアをも征服していたことを意味します。もしイギリスが降伏した場合、その時ナチスドイツと戦っていた他の集団も敗北していたに違いありません。また、ドイツがヨーロッパとロシアのすべてを征服していたら、アメリカも第二次世界大戦に敗れていた可能性さえあります。アメリカは自国だけで戦う力がなかったのです。

このようにウィンストン・チャーチルは多くの人のために、ナチズムから世界を救う責任がありました。イギリスの大半の国民は依然として彼が行なったことについて、誇りと尊敬の意を持っています。チャーチルは伝統主義者であり、彼は君主制を敬い、ビクトリア時代の価値観を尊重していました。彼は人生の中で非常に多くのことを成し遂げ、歴史上で最も偉大なイギリス人100人の中に選ばれ、その名誉を称えられました。