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イーノック・パウエルの演説(血の川演説)

イギリスで議論の的となった人物

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ab/Enoch_Powell_in_garden_Allan_Warren.jpg
1968年4月20日にイーノック・パウエルというイギリスの政治家が、移民についての演説を行いました。この演説の名は‟Rivers of Blood(血の川)”として有名になり、イギリスの歴史上最も不平を生じさせる演説と言われていました。彼が人種差別主義者であると感じているイギリス人もいますが、国の将来について国民に警告をした人物だと言う人もいます。また、彼が行なった演説は第二次世界大戦のウィンストン・チャーチル以来、イギリスの歴史上において最も重要であったと言う人も中にはいます。

この演説は最近、イギリスのニュースで大きな話題となっています。私は個人的にこの内容について記事を書くことにとても躊躇しましたが、現在のイギリスの文化にも大きな影響を与え続けているため、トピックとして取り上げる必要があると感じたのです。

まず、イーノック・パウエルの演説が行われたのは私が生まれる前のことで、彼についてはよく知りませんでした。私が唯一知っていたことは、彼が移民を良く思っていない‟人種差別主義者”だったということです。

この記事の最後に演説に対する個人的な意見を書きたいと思います。

イーノック・パウエルとはどんな人物なのか?

彼は1912年にバーミンガムで生まれ、3歳にして文章を読むことができる優れた才能を持っていました。彼の母親は古代ギリシャ語を話すことができ、イーノックにも教えました。彼は古典学(ギリシャとローマの文学や哲学など)を学ぶためにバーミンガムにあるキング・エドワード学校に通いました。しかし学生仲間の多くと何人かの教師は、彼の思考力とあまりの賢さに恐れていました。

彼は1930から1933年の間、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに通っていました。古代ギリシャ語の試験では、3時間以内にで英語からギリシア語に翻訳するという内容でしたが、なんと彼は90分でそのテストを終え試験会場を去りました。このテストで彼はプラトンとトゥキディデスの形式の文書を翻訳し、彼はラテン語とギリシア語の研究において最優秀な成績を収めました。

これに加えて、イーノック・パウエルは‟インド総督(イギリス政府が植民地インドに置いていた総督)”になることを希望していました。彼はインドの言語を知らずに総督になるのは不可能だと思い、ロンドンの大学でウルドゥー語を学びました。そして彼はケンブリッジ大学を首席で卒業し、多くの賞を受賞しました。彼はそれまでにいくつかの言語について研究し、ポルトガル語、古典/現代ギリシャ語、ドイツ語を話すことができました。そして彼の先祖はウェールズ出身だったためウェールズ語も学び、流暢に話せるまでになったのです。後の1937年、彼は25歳にしてオーストラリアのシドニー大学で古代ギリシャ語教授に就任しました。

第二次世界大戦中

彼がオーストラリアに来てすぐ同僚に、「ヨーロッパで戦争が起こる。」と話しました。そして戦争が始まったら軍隊に入隊するためにイギリスに帰国するとも伝えていました。彼の宣言通り1939年に戦争は始まり、すぐにイギリスに帰国しました。彼は近い将来ロシアがイギリスにとって重要な味方になると信じ、ロシア語を勉強するためにロシアの辞書を購入しました。

そして彼は軍隊に加わり、最初は最下級である‟二等兵”でした。しかし彼は友人に、戦争が終わる前には‟少将”になると宣言していました。彼は士官訓練のために入隊し、最優秀の成績を残して卒業します。彼は戦争を待ち望んでいましたが、優れた語学と学力があったために軍の情報部隊に移されました。そして彼は “大尉”に昇格し、敵の無線メッセージや文書を翻訳する任務を任されていました。彼はこの地位で非常に良い結果を残し、1945年の終戦までには”准将”に昇格しました。第二次世界大戦中に二等兵から准将に昇格したのはイーノック・パウエルともう一人の軍隊のみで、イギリス軍で唯一の逸材だったのです。

政治家の人生

イーノック・パウエルは戦争の間、死は覚悟していました。なのでその後自分が何をするのか考えていませんでした。1947年、インドがイギリスから独立することが公表され、‟インドの総督になる”という彼の夢はここで幕を閉じました。そこで、イーノック・パウエルは政治界に入ると決め、保守党の政治家として新しい世界へ足を踏み入れました。その後彼は1950年に選挙で勝利をあげ、ウォルバーハンプトン南西部の国会議員に就任しました。

イーノック・パウエルは非常に巧みなスピーチライター(政治家などのスピーチ原稿代作者)で、優れた話し手でもありました。彼は多くの演説を行い、政党内で非常に人気を集めていました。やがて彼は内閣の一員となり、保守党は1965年に国政選挙で負けることとなります。この時イーノック・パウエルは、国防長官(影の内閣)に任命されます。

血の川

1945年以降、イギリスは労働者不足でした。この問題を解決するためイギリス政府は、インド、パキスタン、南アフリカ、ガーナ、ナイジェリアなど以前に大英帝国諸国であった多くの人々のイギリスへの移住を認めたのです。 1960年代には多くのイギリス人(白人)が移民水準に対して不安を抱き始めました。一方で移民が増加し続けると、イギリスに悪影響を及ぼすのではないかと心配する声も上がっていました。

イーノック・パウエルは様々な人の懸念の声を聞き、この話題について演説することに決めたのです。

イーノック・パウエルは思考を言葉で表現し、言語を巧みに使いこなす人でした。演説は約20分間続きましたが、彼の演説内での単語を翻訳するのは非常に難しいです。残念ながら、ハイレベルな英語力がある人でなければこの演説の内容を理解するのは難しいと思います。また私も完璧に翻訳することができません。なので、よく引用されているフレーズをいくつかご紹介します。

“We must be mad, literally mad, as a nation to be permitting the annual inflow of some 50,000 dependents”….
“年間約5万人の扶養家族を受け入れる国である私達(イギリス)は文字通りクレイジーです”

….”It is like watching a nation busily engaged in heaping up its own funeral pyre.”
…. “奔走する国が自身の火葬用の積みまきを作っているのを見ているようである”。

“In this country, in fifteen or twenty years’ time, the black man will have the whip hand over the white man.”
“この国で15年または20年の間に、黒人が白人を支配(左右)するでしょう”

前にも述べたように、イーノック・パウエルは大量の移民が継続すれば最終的には暴力につながると確信し、以下の言葉を最後に演説を終えました。

“As I look ahead, I am filled with foreboding. Like the Roman, I seem to see “the River Tiber foaming with much blood”.
“私は未来を考えた時、悪いことが起こりそうな予感でいっぱいだ。ローマ人のように※‟テヴェレ川が大量の血で染まる”のを見ているようだ。

※彼が学んだ文学で、アエネーイスという詩の一節から表現した言葉です。

まとめると彼の演説の意味は、以前帝国諸国であった国からの大量入国によって主要都市の社会的結束に悪影響を及ぼしており、人口統計が急激に変化してしまうと彼は確信していました。

彼は、旧帝国諸国からの移民をほぼゼロまで減らすべきだと提案しました。さらに多くの移民に資金援助をし、帰国させるべきであると考えたのです。彼は、政府がこれを実行しなければ将来で、多くの街の人口統計は一変し、白人のイギリス人は少数になるだろうと述べました。そしてもしこのようなことが起これば、白人以外の人々が先住民族であるイギリス人を差別するようになり、やがて人種差別、暴力、そして最終的には内戦につながると信じていました。

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国の反応

演説が行われた後すぐ、大きな反響がありました。イーノック・パウエルは政府から解雇され、イギリスのタイムズ紙は彼の演説を「悪の演説」と呼びました。また多くの政治家たちは彼を‟人種差別主義者”と呼び、嫌悪感を募らせたのです。

しかし大半の人々がイーノックを支持し、当時の世論調査では74%の人々が彼の言葉に同意したという結果が出ています。イーノック・パウエルは国民から約120,000通の手紙を受け取り、そのほとんどの人が彼を支持していました。そして労働党の支持者であった何千人もの港湾労働者でさえ、保守党のイーノックを支持していたのです。

しかしこの演説の後、イーノック・パウエルは大半の政治家によって追放され、それ以降保守党内での任務に就くことはありませんでした。そして1974年、彼は保守党を去りました。

与えた影響

イーノック・パウエルは何年かたった後に、演説について後悔はなかったかと聞かれ、その時の彼の答えは「No」でした。彼はもし演説をしなかったら、責任逃れになると言いました。

また彼は、人種差別主義者であるのかと何度も聞かれましたが、彼はそれを否定しました。実際に「インド人は色んな意味でイギリス人よりも優れていると思う」と彼は言っていたのです。

イーノック・パウエルはこの演説以降、年々移民は増え続けており、実際にイギリスに移住する移民の数は演説で述べた推定人数を遥かに上回っていることを指摘しました。

イーノック・パウエルは自分の言動や行ないが正しい時、政府はそれを認めることは絶対にないと呼びかけ、将来で内戦が起こる可能性は確実だろうと警告しました。彼は残りの人生を‟社会ののけ者”として生き続け、1998年に生涯を終えました。

現代でも多くのイギリス人が彼に対して強い意見を持っています。政治家の大半は彼が人種差別主義者であり、危険な人物であったと信じ続け、すべてのメディアは彼を悪者扱いしています。しかし国民の意見は分かれました。最近行われたイギリスの世論調査では、40%がイーノック・パウエルは正しいと信じ、41%が不当であると答えています。

多くの人々が彼の言動は正しいが、彼の表現のしかたが良くないと主張しています。イギリスの多文化主義は失敗したと感じているイギリス人は数多くいます。別の世論調査によると、多くの人々がイギリスの異なる地域社会での人間関係が将来悪化していくと感じているようです。また、地域社会はさらに分裂を起こしており、イギリスの主要都市では異なる人種の集団間で社会的緊張が高まっていることも懸念されています。

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イーノック・パウエル 1987年

結論

私の経験では、イーノック・パウエルが人種差別主義者であると主張したほとんどの人が、実際にこの演説を聞いたり見たことがありません。彼らはメディアの情報のみで、彼の生い立ちについては詳しく知らないのです。私はイギリス人として彼自身について深く調査した後、イーノック・パウエルは人種差別主義者ではないと感じました。彼は他の国の文化や言語について学ぶと共に、敬意と愛を持ったとても知的な人でした。彼はインドを高く賞賛し、すべての人種に対して人種差別主義者ではありませんでした。

私はこのスピーチを念入りに読み、また耳で聞いた後、私自身も彼の演説は人種差別を主張するような内容ではないと感じました。ただ、彼の演説スタイルが人々を挑発させるような言葉を使っていることに気付きました。これは現代の公的基準では受け入れられませんが、私は彼が正しいと信じています。制御のない大勢の入国により、2世代または3世代の中で国の人口統計は完全に変わるでしょう。それが国民へ不安をもたらすこととなり、社会的調和にとって危険になり得る可能性があると私は信じています。

 

 

Image Credit: Enoch Powell in garden Allan Warren Allan warren [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0) or GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)], from Wikimedia Commons

Enoch Powell 4 Allan Warren by Allan warren [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0) or GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)], from Wikimedia Commons

Enoch Powell 11 Allan Warren by Allan warren [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0) or GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html)], from Wikimedia Commons

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