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日英の歴史 1587年

イギリス人と日本人が最初に出会ったのは?

イギリスと日本人が初めて出会ったのはいつでしょう?イギリス人が最初に日本を訪れたのか、日本人がイギリスを訪れたのが先なのか?

今日はこのトピックについて詳しく見ていきたいと思います。

※日本とイギリスの歴史の資料はすべてイギリスの視点で書かれています。

1586年

この時の女王はエリザベス1世であり、そしてイングランドとスペインの間では戦争が起こっていました。

トーマス・キャベンディッシュという若いイングランド人の探検家は、船で世界一周することを望んでいました。しかし彼の前に、サー・フランシス・ドレイク(別の有名な探検家)と呼ばれるイングランド人の男が、すでに1577年~1580年にかけて世界中一周を達成していたのです。また、それ以前には1519〜1522年にかけて初めてポルトガル人(マゼラン)とスペイン人(エルカーノ)が世界一周を成し遂げていました。

トーマス・キャベンディッシュ

トーマス・キャベンディッシュは1586年7月21日にイングランドから「Desire、Content、Hugh Gallant」と呼ばれる3隻の船と、123人の乗組員と共に出航しました。彼はこの航海中に、スペイン船と港の襲撃を企んでいました。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b3/The_Golden_Hinde_-_geograph.org.uk_-_360990.jpg

16世紀のイングランド戦のレプリカ

太平洋

トーマス・キャベンディッシュは「マゼラン海峡(大西洋と太平洋を結ぶチリの海路)」を航海し、9隻のスペイン船を捕獲し沈没させました。トーマス・キャベンディッシュは乗組員に、最も小さい船「Hugh Gallant」を意図的に破壊するよう命令しました。なぜなら、この時点ですでに何人かの船員を失っており、残りの船員たちを大きな船の2隻に分けて乗せようと考えていたのです。捕らえられたスペインの船員の1人はトーマス・キャベンディッシュに、たくさんの金と宝を乗せたスペインのマニラ・ガレオンと呼ばれる貿易船が10月か 11月頃にカリフォルニア湾に停泊する予定だと話しました。

サンタ・アナ

毎年、このマニラ・ガレオンはアジアからスペインへ大量の金、絹、香辛料などその他にも高価な物を運んでいました。 1587年にはフィリピンから「San Francisco、Santa Ana」と呼ばれる2隻のスペイン船が出航しました。この2隻の船は道中で台風に巻き込まれ、日本海沿岸も被害を受けましたが、台風の後「Santa Ana」だけが日本で修理をすることができ、その後スペインへの旅は続きました。この時、船には約200人の船員が乗っていました。

トーマス・キャベンディッシュは、彼の2隻の船「Desire」と「Content」と共にカリフォルニア湾で待ちました。1587年11月4日に「Santa Ana」がキャベンディッシュの船によって発見され、攻撃を受けます。数時間に及ぶ追撃と戦闘の末、スペイン船は沈没し始め、乗組員は降伏しました。

16世紀、イングランドとスペインは何度も戦争をしていました

最初の接触(ファーストコンタクト)

スペイン船はイングランド船よりはるかに大きかったため、すべての宝をイギリス船のDesireとContentに積むことは不可能でした。そこでトーマス・キャベンディッシュは残りの190人のスペインの乗組員を陸まで連れて行くことに決めました。そして彼は、その地域では水と食料が十分に手に入れられ、人が生活できる場所であると判断しました。

トーマス・キャベンディッシュは スペイン船”Santa Ana”の乗組員の中の7人を選抜し自身の船員に加えました。このうちの2人が日本人で1人は20歳、もう1人は16歳でした。ある報告によると彼らは日本語を読み書きすることができ、日本でカトリック教に改宗していました。台風の後に修理をするため日本に着岸した際に彼らは「Santa Ana」に加わったのかもしれません。

そして彼らは優れた能力があると言われており、おそらくポルトガル語やカスティリャ語を流暢に話すことができたのでしょう。彼らの日本の名前はわかりませんが、最古の日本人は‟Cristóba”または‟Cristóvão”、若い日本人は‟Cosme”または‟Gusmão”と呼ばれていました。イングランド人の船員らは彼らのことを「ChristopherとCosmas」と呼ぶことにしました。

イングランドへの旅

「Santa Ana」と遭遇した後、イングランド船「Desire」と「Content」は旅を続けました。その後「Content」は行方不明となり、乗組員に何が起こったのかは不明のままです。

トーマス・キャベンディッシュは日本には行かず、1588年1月にグアムへ航海し、最終的にフィリピンを訪問しました。この時トーマス・キャベンディッシュは貨物の一部を物資と交換し、中国と日本の沿岸にまつわる情報も買い取りました。彼は二度目の航海でこの知識を生かそうと考えていたのです。

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サー・フランシス・ドレイクが航海した時の経路(後にトーマス・キャベンディッシュもほぼ同じ経路で航海している)

「Desire」はアフリカの沿岸を航海し、Cape of Good Hope(喜望峰)を通過しました。トーマス・キャベンディッシュと乗組員たちは1588年9月9日にイングランドに戻りました。キャベンディッシュはその功績が称えられて有名になり、スペイン船から奪った貨物のおかげで非常に裕福になりました。そしてエリザベス1世によって騎士に叙されたのです。

エリザベス1世は「Desire」での夕食に招待され、ここで2人の日本人‟ChristopherとCosmas”と出会っていたのかもしれません。1591年、彼らが約3年ほどイングランドに住んでいたと言及された別の日記が出てきたことが分かっています。

2度目の航海

トーマス・キャベンディッシュは1591年8月、2度目となる航海で日本人2人に一緒に来るよう言いました。彼はChristopherとCosmasを気に入っていたに違いありません。この時、2人の日本人は英語を結構話すことができ、それに加えて他の言語も話せていたことが分かっています。

そして、再びトーマス・キャベンディッシュは南米を航海し、スペインの植民地を攻撃する計画を立てていました。多くの乗組員がブラジルでポルトガル人と戦った後亡くなりました。そして残念なことに、ChristopherとCosmasもこの2度目の航海中に病気か戦闘によって命を落としたようです。トーマス・キャベンディッシュはセントヘレナを航海しましたが、その後すぐ原因は不明ですが31歳の若さで亡くなっています。

キャベンディッシュと共に、ChristopherとCosmasはカリフォルニア湾の西方からイングランドへ、さらにイングランドから南米のマゼラン海峡まで航海しました。その後、マゼラン海峡を通ってカリフォルニア湾の直前のところで彼らの航海は終わってしまいましたが、もしカリフォルニア湾に到達していたら、彼らは世界一周を成し遂げた最初の日本人となっていたでしょう。

 

 

Image Credit: The Golden Hinde by Martin Addison / The Golden Hinde

Francis Drake 1577-1580 by Continentalis (This file was derived from World Topography.jpg:) [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons

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